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塩飽諸島2日目その2

塩飽諸島は当時住民が自己統治していた「人名」制度があった。大名が統治するのに対して人名という。日本でも2つくらいしか例がないそうだ。それほど、瀬戸内海が重要だったことが伺われる。ご存知の村上水軍でさえ、人名制度ではなく大名が統治していた。でもそれは遠い昔の話、今の塩飽諸島には人が住むという基本制度が成り立っていないのではないかと思う。近い将来限界集落になると言われているのに、誰も何も手を打たないで嘆いているだけのように見受けられる。丸亀港から船で40分程度で料金は¥500程度。でも、コンビニや喫茶店もなく、貸し自転車もない。宿泊施設は2年前にできたが食事の提供はなく、自らが自炊するかカップラーメンやパンを持参するしかない。週に1回+αの月に8回の移動販売車が集落を回る。当然、商品の価格は丸亀市内で買うよりも割高である。島で自活できる能力は極めて乏しい、広島では漁をする人はいない。畑は自分たちが食べる範囲、水田は全くない。島の集落は6カ所、これは多すぎるのかも知れない。各集落にはそれぞれ空き家が半分以上、朽ちるに任せた状態で放置されている。産業は唯一「石」、青木石として有名だった。今は採石場は3つに減ってしまった。ほとんどは受け継ぐ人材不足でそのまま荒れた状態で見られる。年に1度「お大師参り」があり、島外からの人たちが観音堂、お寺、石仏をお参りする。お寺や観音堂では小額のお布施でおもてなしをうけることができる。丸亀市内や岡山から来られていた。子供たちも結構来ていたようだ。でもおもてなしの内容はどこでも手に入るお菓子や缶の飲み物が中心、島の特産物が振舞われることはない、というか島の特産物はないと断言されてしまった。もっと島を大事にして「島の特長」を発信することが必要であろう。そしてこの島には「これがある」と言えるものを創造することが大切。10年後を目標にがんばってほしいものである。

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